『100日後に死ぬワニ』はなにがいけなかったのか
もう既に二番煎じどころではなさそうなタイトルで記事を書いてしまいました。
断っておくとわたしは表題の『100日後に死ぬワニ』の読者ではない。
だからこそ、今回の一連の騒ぎを外側から見ていたワニへの感情移入もなにも持たない部外者の意見をひとつ、ここに記しておこうと思いました。
まず、わたしが最初に『100日後に死ぬワニ』の存在を知ったのは、Twitterで流れてきたRTによって。恐らくあと90日とか、そのくらいの時期だった記憶がある。
ぽつぽつと時たまTLに流れてくる4コマを眺めて作品の趣旨を理解した時は、「命が限りあるものだと、当然だけれども案外当然でもないことに気づいた時、なんでもない日常が尊く美しく感じられる」。
つまらなく一言にまとめてしまうとこんな具合の作品なんだなと、少ない情報のみを得ていたわたしの印象です。
それを真っ直ぐに受け止めて、ワニの一日一日を噛み締めるように読むもよし、人だって〇日後に死ぬことにはなんの変りもないのに、“100日後”と銘打たれた途端命だなんだと急にありがたがる読者を嘲る斜めの視点もよし、個人の「死生観」をうかがい知れる作品だと遠目に見て過ごしていました。
おかしいなと思いだしたのは、各種メディアで取り上げられるようになってから。
今、SNSでの話題作、ワニの100日後は一体―?
そんな具合に取り上げるWSを酷く無粋だと思いました。
それまではわたしも少し時間が出来た時にでも読もうかしら、と感じていた話題作への気持ちも途端に冷めてしまいました。
こう感じるのは、わたしのややひねくれたパーソナリティが影響していることも自認しています。
このわたしと同じような感情は、ある一定数が抱くものだと前々から考えています。
わたしは現在20代前半ですが、比較的幼い頃からインターネットに触れていたため、所謂インターネット老人会と揶揄される時代にノスタルジーを感じています。
インターネットはサブカルチャーど真ん中、この感覚が未だ残る層は、今のインターネットこそが流行を作り出す世の中になんとも言えないむず痒さを覚えます。
ネットの流行はあくまでもネットの中だけで完結するもの。それはテレビや雑誌、メディアで大きく取り上げられるポップカルチャーになり得ないと思ってしまう。
バズったツイートが当然のように朝のWSとかで特集されているのを見ると、(晒されてる…!)と一人勝手にそわついてしまう。
とはいえ、SNSの発信力がいかに絶大であるか、それが文化や経済の活性化にとっていかに有用であるか、もっと言えば創作活動を行う人や、小売店や施設のどれだけの手助けをするか、勿論分かっていないわけではない。少しずつ自身のチューナーを調整する必要がきっとあるんだ、という意識をここ数年意識的に持っていました。
それでも、わたしがワニに盛り上がる世間を上手に受容できなかった理由。
それは、この作品が「死」を取り扱っている内容であるということ、そして世間がその「死」への考察で沸いていたことをメディアが取り上げたこと。
考察の余地がふんだんにある作品、伏線が至るところに散りばめられた作品、わたしも好きです。大好きです。なんならVOCALOIDが己の青春だったので、考察しがいのある楽曲のニコニコ大百科の掲示板へつらつらと考察を書き連ねる過去がある程度には好きです。
ただ、昨今の主に連続ドラマによく見られる「受け手に考察させること」を見え見えの戦略にするコンテンツがどうにも体に馴染まないんですよね。
考察ってしたい人がするものだと思うんです。考察好きな人がああでもない、こうでもない、を考えて意見交換をしたり時には言い合いになったり、そんな様を眺めてみたり。
いずれにしてもそれだけその作品への興味関心が強い人によって行われる行為であって、その域を越えないものだとわたしは考えています。ある種、どうしようもなくその作品に惹きつけられた人々のみのコミュニティというか。だからこそ、考えすぎだと言われるくらい穿った見方をする人がいても良いし、作り手側からのアンサーはなくても良い。
それを「SNSでの考察が話題!」、「考察が上がってくるのを楽しみにしている視聴者」なんて、そのドラマの放送局で取り沙汰されるとなんだかげんなりしてしまう。
「関心が向いた人が自ずから摂取するものだった考察」から転じて、「考察を摂取させるために関心を向けさせる」ような発信が為されるようになってしまった。
まあ今回のワニについては流行操作云々の真偽はどうあれ、各種メディアが勝手にそう取り上げたものだとして、だとしてもその主たるテーマが良くなかった。
ワニはどのように死ぬのか、どんなことがワニの死を示唆しているのか。
ワニが死ぬまであと1日を迎えた時のメディアの盛り上がりよう。
ひとつの生命が終わることに、こんなにも世の中が注目をしていること。
ひとつの生命が終わることを心待ちにするような、煽っているようにさえ感じてしまうような過剰な盛り立てをしていたこと。
このお祭り騒ぎにも思える死とは相対する状況を端的に、気持ち悪いと感じてしまったし、美しくないと思ってしまった。
最初に言ったとおりこれは外野のわたしの意見なので、毎日更新を楽しんでいた読者にどれだけわたしと同じような違和感を覚えた人がいるのかは分からないけれど、一言で異様に思えた。
真犯人は誰なのか、黒幕は誰なのか、それが明かされることで同じような状況になるケースは数あれど、もう死ぬことは分かっているワニがいかにして死ぬのかを待つ人々。
良いんです。読者が最終回を心待ちにするのは当然だし良いんですよ。ただ、それがメディアを巻き込んだ規模のイベントになっていることがわたしはひたすらに違和感だった。
そんな違和感を持っていたわたしにとっては、100日目を迎えたワニの怒涛の商業展開は、なるほど合点がいくものであった。わたしがチューニングを合わせようと必死になっている現代のコンテンツの受容について、こんな戦略もあって然りなんだと。
ここで、『100日後に死ぬワニ』という社会現象についてのわたしの見解は幕を閉じると思っていた。
ところが、瞬く間に炎上とも取れる騒ぎになっていたことには少し驚いた。少し驚いたので、この記事を書くまでに至ったのです。
どうして一部の読者層は今回の件で憤慨、あるいは興覚めするまでになってしまったのか。
それは繰り返しになりますがやはり、この作品が「死」という悲劇的なテーマを扱っていたことなのだと思います。
『100日後に死ぬワニ』は人のカタルシスを葬った作品になってしまった。
「ワニが死なないって展開も有り得るんですか?」といったようなクソリプラーもびっくりのクソリプを作者にぶつけたWSが叩かれるなどもしていましたが、読者は皆ワニが死ぬことは言わずもがな、分かっているんですよね。
それでも、日毎にカウントダウンされていく数字に寂しさ、切なさを感じていた。時間が経過するとともに、結末は分かっていようとも「死なないで欲しい」と感じるようになるし、一方でそう心の中で唱えることこそがある種その死を受容する準備なんですよね。読者は100日間、ワニの死を思うことでワニの抗えない運命を見守ってきたのだと思います。
アリストテレスは演劇における悲劇について、人にもたらされるカタルシスの作用について唱えました。
予め提示された抗いようのない悲劇的な運命を迎えた時、観客はカタルシスという一種の快感を感じます。
大雑把な言い方をするのならば、観劇後の余韻がそれだと思っていて、例えばハムレットの悲劇『ロミオとジュリエット』なんて端から悲劇と銘打たれている訳で、ふたりの迎える結末なんて誰でも知っているけど、それでもやっぱりどうしたって結ばれないふたりの命運を見届けたら、すぐさま客席を立つことができないくらいの余韻があるじゃないですか。
「やはりワニが死んでしまった」という既に提示されていた悲劇を実際に目の当たりにした読了後の読者には、このカタルシスが提供されなければならなかった。
しかし、実際に読者に提供されたのは、心の内からもたらされるカタルシスではなく、書籍化・映画化・グッズ化と、目が回ってしまう程の情報とモノだった。
これだけ注目を浴びていた作品で、商業関係者が目を付けない訳がない。ワニはみんなの心の中に…とは言いませんが、心の中に仕舞いこむよりずっと早く、カタルシスに浸る間もないまま、ワニは彼を取り巻く大人たちの手によって悲劇を飛び越えて読者の前に顕在化してしまいました。
あのイエス・キリストだって生き返ったのは3日後ですよ。
聖書になぞらえていうのであれば、キリストが磔刑に処されて、十字架降下された途端息を吹き返し、聖人が「彼の生涯を記した新約聖書出しちゃうよ~!」ってなスピード感なわけじゃないですか。受け止めきれないでしょうよそれは。
『100日後に死ぬワニ』はなにがいけなかったのか。
クライマックスを盛り上げすぎていること自体に違和感を感じていたわたしみたいな層はさておき、死んだワニは葬らずに、一緒に盛り上がっていた、盛り上がりに加勢していた層のカタルシスを葬り去ってしまったこと、これが要因だとわたしは思うのでした。